藤子不二雄A先生がお亡くなりになられましたね。
藤子不二雄といえば、昭和を代表する漫画家ですが、藤子不二雄を知らない世代にとっては「AやFって何?」「藤子不二雄がどうして解散になったの?」と疑問に思うこともありますよね。
藤子不二雄は藤本弘(F)先生と、我孫子素雄(A)先生の共同ペンネームのことです。
1954年にコンビを結成しましたが、1987年に解散しました。
解散理由を調べていると、どうやら藤子F不二雄先生の言い分と藤子不二雄A先生の言い分とで食い違いがあるようです。
一体どのような解散理由があったのか気になりますよね。
そこで、今回は
- 藤子不二雄の解散理由は?
- 藤子不二雄AFの違いは?
ということをまとめました!
藤子不二雄の解散理由は?
藤子不二雄の解散理由ですが、藤子F不二雄先生と藤子不二雄A先生とで意見が食い違っています。
藤子F不二雄先生の解散理由
藤子不二雄先生の主張する解散理由は「金銭トラブルを避けるため」です。
藤子不二雄というペンネームで、おばけのQ太郎やドラえもん・忍者ハットリくんなどの有名な漫画を描いてきました。
しかし、どうやら大ヒットしたドラえもんは、ほとんど藤子F不二雄先生が描いた作品なんだとか。
「藤子不二雄」で出版した漫画の収入は、綺麗に折半していたようです。
しかし、どちらかが死んだ後に遺族がドラえもんの著作料をめぐって金銭トラブルになるのではないかと危惧した藤子F不二雄先生。
藤子F不二雄先生は、体調不良で胃潰瘍の手術を受けています。
その後も肝臓を悪くして通院しており、自分が死んだ後の家族のことが気になっていたのでしょうね。
そこで、相方の藤子不二雄A先生にコンビ解消の件を持ちかけると、あっさりと快諾したとのことです。
お互いに結婚して家族ができると、コンビ結成時のように友情だけで収入を等分割することもできないですよね。
藤子不二雄A先生の解散理由
藤子不二雄A先生は、元々多趣味でゴルフに行ったり飲みに行ったりし、漫画執筆以外の時間も過ごしていたのだとか。
それに比べて、相方の藤子F不二雄先生はいつも真面目に机に向かって漫画を描いていたようです。
藤子不二雄A先生が遊んで帰って、藤子F不二雄先生の真面目な執筆態度を見ると悪い気がしていたのだとか。
また、お互いの描く漫画も藤子F不二雄先生は「どらえもん」「忍者ハットリくん」のような子供向けの夢のあるもの。
それに対して藤子不二雄A先生の描く漫画といえば「恨み魔太郎」「プロゴルファー猿」のような子供向けではない変わった作品。
藤子F不二雄先生との漫画のヒットの差も顕著に。
遊んでいる上に漫画もさほどヒットしないのに、収入は折半という状況が次第に辛くなり、藤子不二雄A先生からコンビを解消しないかと提案したところ、藤子F不二雄先生も快諾したとのこと。
藤子F不二雄先生と藤子不二雄A先生とで解散理由に違いが見られますが、まとめると
藤子F不二雄先生:将来の金銭トラブルを避けるため
藤子不二雄A先生:遊んでいる上にヒット作を出せないでいるのに、収入を折半している状況が辛い
ということになります。
解散理由に違いはあるものの、お互いが「そろそろコンビを解消して別々に歩んでいく時だ」と感じていたようですね。
藤子不二雄AFの違い
藤子不二雄先生で調べると、「A先生」「F先生」などとややこしいですよね。
AとFの違いですが、藤子不二雄という共同ペンネームから独立した時に
藤本弘=藤子不二雄F(後に藤子F不二雄に改名)
我孫子素雄=藤子不二雄A
という名前にペンネームを変えたためです。
整理すると、
藤子F不二雄:藤本弘先生(代表作は「ドラえもん」「忍者ハットリくん」)
藤子不二雄A:我孫子(あびこ)素雄先生(代表作は「恨み魔太郎」「プロゴルファー猿」)
ということになります。
我孫子先生はイニシャルのAを、藤本先生はFというように、お互いの苗字のイニシャルをとってAとFに区別しているのだと思われます。
まとめ
藤子不二雄で有名な藤子不二雄A先生が亡くなられました。
藤子不二雄を知らない世代からするとAやFはどういうこと?どうして解散したの?と疑問に感じることが多くあったかもしれませんが、一つ一つ見ていくと納得でしたね。
藤子不二雄A先生は大して作品を描いていないという人もいますが、藤子不二雄はA先生がいなければ生まれていない漫画家で、もしかするとドラえもんが誕生していなかったかもしれませんよね。
藤子不二雄A先生、たくさんの作品をありがとうございました。
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